本当はハーミットじゃ無かった

ハーミットの歴史はもうすでに20年以上が経ってしまったけれど、私の釣具屋人生はもうすぐ40年になっちゃうんですな。なので古い馴染みのお客さんは30年以上の付き合いの人もいます。皆さん白髪混じりになったけれど、アルバイト時代に仲が良かったお爺ちゃんは、とっくに亡くなってたりします。

前にも話した事があるかと思いますが、私は大手釣具店さんに長い事いたので釣りはなんでするフィッシャーマン。その会社では何でもやりたい事はやらせて頂いたので今でも感謝しておりますが、当時自分が読みたくなるような釣り本がないので、それを作りたくて会社をスピンアウトした次第。

全く違う業種への転身だったので辞めると決めた一年前に当時高額だったMacとプリンターを買い込んで、専門書を買い込んで夜な夜な編集の勉強してました。実際辞めてはみたものの何をどうしたら良いかわからないので、一から学ぶつもりで某出版社へ。転がり込む様にして働かせてもらっていたのですが、時代の波が合致していたのか先行投資していたPCで本を作る作業(DTP)ができる人がまだおらず、いつの間にか仕事がドッサリ。自分の企画を持ち込んだりして色々な本を作っていた良い時代です。

そんな最中、アメリカのモンタナにあるダンベイリー社が日本に支店を出したいと言う話があり、その支店をお前がやらないか?と言うお話を頂いたのです。で、私は一人モンタナのリビングストンにあるダンベイリーへと渡ったのです。

ダンベイリーと言う会社は1938年創業の戦前からある老舗で、コマーシャルフライ(完成品フライ)を中心に世界へ向けて通信販売をしていた会社。多分私ぐらいフライ歴がある人はご存知で、カーフマン(廃業)などと同様に現金小為替で注文していた人も多いはず。そんなダンベイリーへ行ったらやはりそこでもクォークエクスプレス(当時使ってた編集ソフト)を使ってカタログやイベントのパンフ作りをしながら、その屋根裏部屋に住んでたんですよ、ひと時。

日本へ帰っていざその支店準備を始めると、釣具屋って開業するのに莫大な資金がかかるんですな。特に都心だと保証金と礼金だけでも物凄い額で目ん玉がぶっ飛びます。そしていざ始めようと思った時にダンベイリーが手をひいてしまい、やらざる状況に追いやられて始めたのがこのハーミットなのです。そう、ここは当初の予定ではダンベイリー・東京ブランチの予定だったんですな。

ではこの店の名前はどこから来たのか?実は命名したのは私じゃありません。当時私は編集関係の仕事で忙しかったので釣り仲間のT君を店長にし、彼に命名を任せたんです。もっとも私よりも当時は彼のほうが世捨て人っぽかったですからね。

先日のモンタナは久しぶりに里帰りした気分でそのダンベイリーがあるリビングストンへ。今も変わらぬ場所にお店はあるのですが、当時の面影は全くなくフライフィッシャーマンの殿堂壁と呼ばれた魚拓状の板だけが、当時の繁栄を感じさせるものでした。私が住んでいた屋根裏部屋はまだあったけれど、街の中身は大きく変わり始めている様に感じます。でも、その側を流れるイエローストンリバーはこれからも流れ続け、私達が死んだ後もトラウトを抱き続けるのでしょう。

釣り人御用達モンタナの玄関口と言えばボーズマン。だいたい1割くらいのお客さんがフライロッドを持っています。その空港へ降り立つとこんな熊さんの像がお出迎えしてくれます。
リビングストンの街のほぼ中央にあるダンベイリーの外観。マテリアルのある小部屋は私がいる時までは、タイングするオバちゃんが数名いました。ひと昔前はその部屋に女工さんがズラっと並んでフライタイイングをし、それを販売していたのです。
今回はお休みの日に行ってしまったので、過去の写真を引っ張りでして記載。今はものすごく閑散とした雰囲気で、壁にズラリと並んだトラウトの魚拓ならぬ板拓(実際にはなぞっているだけ)が時代を感じる。古いものは戦前の板があるんです。
リビングストンの街に高くそびえるこの建物は1940年代に建てられた穀物用エレベーター。鉄道の駅舎跡が近くにあり、毎朝6時過ぎの貨物列車の汽笛で当時私は起こされてました。
リビングストンの中心部。車とアスファルトが無かったら開拓時代を感じさせませんか?街に信号は二つ。映画館は一つ。釣具屋はたくさん。
ダンベイリーの隣はマーレイと言うホテル。その一階にカウンターバーがあり、仕事が終わるとそのバーでルームメイトやガイドと一緒に毎晩ビールを煽ってました。